10年の空白を経て剣士たちが一堂に会した、戦後剣道の出発点(1953年 京都大会)
2020/11/30
武徳祭大演武会
1.人々は「もう一本拝見!」と声をかけ、会場を立ち去ろうとしなかった
昭和20年の第二次世界大戦終戦後、剣道を初めとする武道は日本の軍国主義を助長した「民主的でないもの」とされ、それまで武道を統括した大日本武徳会が解散させられるとともに、剣道は公的機関や学校で行なうことを禁ぜられた。まさに剣道の存続が危機にさらされた。
やがて徐々に剣道は復活に向けて動き始め、新たなスポーツとして考案された「しない競技」を経て、剣道の復活が認められ全日本剣道連盟結成に至ったのは昭和27年10月のことだった。
全日本剣道連盟発足後、最初の全国大会が昭和28年5月4日の京都大会だった。大日本武徳会が昭和18年まで開催していた武徳祭大演武会を引き継いだものである。
つまり全国大会の開催は10年ぶりのことだった。この大会では団体対抗試合すなわち現在の全日本都道府県対抗剣道大会と、現在の全日本剣道演武大会のような1人が1試合のみを行なう個人試合(立合)が、京都市の旧武徳殿で行なわれた。
四十都道府県代表200名と、個人試合に1200名、各種形に200名、大会に引き続いて行なわれた称号審査会の参加者800名を合わせて2000名を超える剣士が、存続の危機を経て戦後初めて一堂に会したのである。剣士たちは手を握り合い、涙を流して再会を喜んだという。
この大会の掉尾を飾ったのは、四組の範士模範試合だった。
柴田万作(東京)×四戸泰助(京都)、津崎兼敬(兵庫)×白土留彦(東京)、大麻勇次(佐賀)×宮崎茂三郎(京都)、小川金之助(京都)×持田盛二(東京)である。
「その柔と剛、技と肚、一分たりともゆるがせにしない間合の争いに、見る者をして恍惚たらしめ、満堂寂として声もない有様であった」と『剣道百年』にはある。
後にともに十段となる小川と持田の立合が終わっても、人々は「もう一本拝見!」と声をかけ、会場を立ち去ろうとしなかったという。